「新年、特に旧正月(春節)から一ヶ月は髪を切ってはいけない。もし切ったら、母方の叔父さん(舅舅)が死んでしまう」――。現代の中国を旅したり、中国人の友人がいる方なら、一度は耳にしたことがあるかもしれないこの奇妙な言い伝え。科学技術が目覚ましい発展を遂げる現代中国においても、この風習は意外なほど根強く残っています。
多くの人はこれを単なる「迷信」として片付けてしまうかもしれません。しかし、この一見不可解なタブーの裏には、実は中国の激動の歴史と、漢民族の深い悲しみ、そして静かな抵抗の精神が隠されているのです。この記事では、その衝撃的な由来と、言葉が変化していった背景を徹底的に掘り下げていきます。
【なぜ?】中国で旧正月に髪を切ると叔父が死ぬ!? 衝撃の歴史背景と「正月不剃头」の真実を徹底解説

ただの迷信ではなかった!旧正月の散髪タブーに隠された歴史のドラマ。
目次
「正月髪を切ると叔父が死ぬ」– 本当に信じられているの?
言い伝え「正月不剃头,剃头死舅舅」のインパクト
中国で広く知られるこの言い伝え、「正月不剃头,剃头死舅舅 (Zhēngyuè bù tìtóu, tìtóu sǐ jiùjiu)」は、字面だけ見ると非常にショッキングです。「正月(旧暦の1月)に髪を剃らない、髪を剃ると母方の叔父が死ぬ」という意味。この言葉の強烈さゆえに、多くの人々の記憶に残り、世代を超えて語り継がれてきました。
30年近く中国と関わりのある日本人男性が、最近になって中国人妻の親族からこの風習を指摘され、科学万能の現代にこれほど非科学的な迷信が生きているのかと大変驚いたというエピソードも、この言い伝えの根強さを物語っています。中国初の火星探査機「天问一号 (Tiānwèn yī hào)」が火星に着陸するような時代であっても、文化や伝統は人々の生活に深く結びついているのです。
Cóngxiǎo wǒ jiù tīngshuō guò, “Zhēngyuè bù tìtóu, tìtóu sǐ jiùjiu” de shuōfa,
从小我就听说过,“正月不剃头,剃头死舅舅”的说法,
érqiě duōcì shòudào jiùjiu de wēixié, shuō wǒ yàoshi Zhēngyuè tìtóu,
而且多次受到舅舅的威胁,说我要是正月剃头,
tā míngnián kěndìng bù gěi wǒ yāsuìqián le.
他明年肯定不给我压岁钱了。
Děng wǒ zhǎngdà le, wǒ yě kāishǐ yāoxié jiùjiu,
等我长大了,我也开始要挟舅舅,
yàoshi hóngbāo gěi de xiǎo, Zhēngyuè wǒ jiù qù lǐfà.
要是红包给的小,正月我就去理发。
『正月には髪を剃らない、髪を剃ると母方のおじさんが亡くなる』との言い習わしを私は小さい頃から聞いてきました。その上、「もし私が正月に髪を切ったら来年のお年玉はあげないよ」と何度もおじさんに脅されました。
大きくなると今度は私が「もしお年玉を少ししかくれないなら正月に散髪しに行くよ」とおじさんの弱みに付け込もうと脅しました。
歴史の闇へ – 恐怖の「剃髪令」と漢民族の抵抗
この一見奇妙な風習の起源をたどると、私たちは約370年前、清王朝による統治が始まったばかりの激動の時代へと誘われます。この「正月は髪を切るな」という言葉の裏には、想像を絶するほどの悲劇と、民族の誇りをかけた抵抗の歴史が刻まれていました。
清朝初期の激動 – 満州族支配と「辮髪」の強制
17世紀半ば、明王朝が滅び、満州族が建てた清王朝が中国全土を支配下に置こうとしていました。新しい支配者たちは、広大な漢民族の地を統治するため、様々な政策を打ち出します。その一つが、治国方針「削平四周, 留守中原 (xuēpíng sìzhōu, liúshǒu Zhōngyuán)」(周囲を平定し、都(中原)を守る)でした。
この方針のもと、人々の思想を統一し、服従の証とさせるために考え出されたのが、特異な髪型「辮髪(べんぱつ)」の強制でした。頭頂部周辺の髪だけを残して長く伸ばし三つ編みにし、それ以外の前頭部から側頭部にかけての髪を全て剃り上げるというものです。そして、この辮髪を全国民に強制する命令「剃髪令 (tìfàlìng)」が発令されたのです。
スローガン「留头不留发,留发不留头」の恐怖
この命令がいかに強圧的であったかは、当時のスローガンが如実に物語っています。「留头不留发,留发不留头 (Liú tóu bù liú fà, liú fà bù liú tóu)」――「頭を残したければ髪を残すな(=髪を剃れ)、髪を残したければ頭を残すな(=切れ)」という意味です。これは実質的に「辮髪にするか、さもなくば死か」という、有無を言わせぬ恐ろしい最後通牒でした。

辮髪令は、漢民族の文化と誇りを踏みにじる過酷な命令でした。
漢民族にとって髪とは? – 「身体髪膚これを父母に受く」の教え
この辮髪令は、特に漢民族の男性たちにとって、筆舌に尽くしがたい屈辱であり、激しい反発を引き起こしました。なぜなら、伝統的な漢民族の価値観において、髪は単なる身体の一部ではなかったからです。儒教の経典である『孝経』には「身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也(身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり)」という教えがあります。つまり、自分の体も髪も皮膚もすべて親から授かった大切なものであり、それを傷つけることは親不孝の始まりである、と考えられていたのです。そのため、男女ともに髪を切らずに長く伸ばし、それを束ねたり結い上げたりするのが古来の習慣でした。
髪を切ることは最大の屈辱「髡刑」
逆に、髪を剃り落とすことは、古来より罪人に対する刑罰の一種「髡刑 (kūnxíng)」として存在し、社会的な抹殺と最大の恥辱を意味しました。このような文化的背景を持つ漢民族にとって、辮髪令は、自らのアイデンティティと尊厳を根底から否定されるに等しい、耐え難い命令だったのです。
命を賭した抵抗 –各地で起きた虐殺事件
当然のことながら、この剃髪令に対して漢民族は激しく抵抗しました。当時の中国南方で起きた徹底抗戦の様子は、イタリア人宣教師マルティノ・マルティニが著した『鞑靼戦紀 (Dádá Zhànjì)』(De Bello Tartarico Historia)に生々しく記録され、1654年にヨーロッパ各国で出版され衝撃を与えました。
マルティニの記録によれば、漢民族の文人たちは清王朝のスローガン「留头不留发,留发不留头」に対し、「头可断发不可剃 (tóu kě duàn, fà bù kě tì)」(頭は切られてもよいが、髪を剃られるわけにはいかない)と宣言し、文字通り死を覚悟して抵抗の意思を示しました。そして、多くの民衆や地元の兵士たちが武器を取り、清軍と戦ったのです。
「揚州十日記」「嘉定三屠」にみる悲劇
この抵抗に対し、清軍は容赦ない弾圧を行いました。特に有名なのが「揚州十日 (Yángzhōu shírì)」や「嘉定三屠 (Jiādìng sāntú)」といった大虐殺事件です。揚州では、抵抗を続けた結果、清軍による虐殺が5日から10日間続いたとされ、数十万とも言われる無辜の市民が犠牲になりました。これらの事件の詳細は、中国国内では長らく隠蔽されてきたため、その全貌はいまだに完全に解明されていませんが、剃髪令がいかに多くの血を流させたかを物語っています。
「思旧」が「死舅」に? – 言葉に秘められた民族の記憶
多くの犠牲を払いながらも、清王朝の圧倒的な武力の前には抵抗も長くは続きませんでした。生き残った人々は、やむなく辮髪を受け入れざるを得なくなります。しかし、彼らは民族の誇りや伝統文化への思いを完全に捨て去ったわけではありませんでした。表立っては清朝に恭順の意を示しつつも、心の中では失われたものへの哀悼と、いつか取り戻したいという願いを抱き続けていたのです。

「思旧」の念は、人々の心の中で静かに燃え続けた。
抵抗の精神を密かに受け継ぐ「正月不剃头」
清王朝の高圧的な支配下で、かつてのように「頭可断发不可剃」と公然と叫ぶことはできなくなりました。しかし、人々は別の形でその思いを表しようとします。それが、旧正月の期間は髪を剃らない、というささやかな抵抗でした。旧正月は漢民族にとって最も重要な伝統的祝祭であり、先祖を敬い、家族が集う時です。この特別な期間に髪を剃らないことで、彼らは過去の伝統や失われた文化、そして明王朝への思いを密かに表現したのです。
「思旧」 – 故国や伝統文化を思う心
この「正月不剃头」という行為は、当初「思旧 (sījiù)」という言葉でその意図が共有されていました。「旧(ふるき)を思う」という意味で、滅びた明王朝や漢民族の伝統文化、かつての生活様式を懐かしみ、忘れないという誓いが込められていたのです。「思旧」と「死舅 (sǐ jiù)」は、中国語の発音では声調が異なるものの、主な音(ピンインの主要部分)が同じ「jiù」であるため、音の上での類似性がありました。
Yīnwèi Dàqīngguó de gāoyā shǒuduàn, tāmen bù zài gāohǎn “tóu kě duàn fà bù kě tì”.
因为大清国的高压手段,他们不再高喊“头可断发不可剃”。
Dànshì, yào biǎoshì duì zǔxiān de lìshǐ wénhuà de huáiniàn,
但是,要表示对祖先的历史文化的怀念,
yīxiē rén zài Zhēngyuè bù tìtóu, jiù qǔyì “sījiù”,
一些人在正月不剃头,就取意“思旧”,
hòulái wèile yǎnrén’ěrmù, bǎ tā échuán wéi “sǐ jiù”.
后来为了掩人耳目,把它讹传为“死舅”。
清王朝が高圧的な手段を取ったために、彼らは髪を剃るのに命がけで抵抗すると声高にはもう言わなくなりました。
それでも先祖の歴史文化への思いを表すために、一部の人々は正月には髪を剃らないことで「思旧」(以前を思い懐かしむ)意思を密かに表しました。やがて人の目をそらすためにそれを「死舅」と伝えるようになったのです。
なぜ「舅舅(叔父)」だったのか?発音とタブー化の謎
では、なぜ「旧を思う」という本来の意味が、「叔父が死ぬ」という不吉な迷信へと変化したのでしょうか。最も有力な説は、清王朝の厳しい監視の目を逃れるため、そしてこの習慣をカモフラージュするために、意図的に不吉で無関係な言葉に置き換えたというものです。「死舅 (sǐ jiù)」という言葉は、その衝撃的な内容から人々の注意を本来の意味からそらし、また、為政者にとっては取るに足らない「迷信」として扱われやすかったのかもしれません。発音が似ていることを利用した、一種の言葉遊びであり、危険な思想を隠すための暗号だったとも考えられます。
現代に生きる「正月不剃头」– その意味と変化

現代では、由来を知らずともユーモラスなやり取りのネタになることも。
清王朝が滅び、辮髪の習慣も廃れて久しい現代においても、「正月は髪を切らない」という風習は、特に年配者を中心に、あるいは一部地域では依然として守られています。しかし、その本来の悲しい歴史的背景や「思旧」の精神を知る人は少なくなりました。多くの場合、単なる「昔からの言い伝え」「縁起が悪いから」といった理由で、あるいはジョークのネタとして受け継がれています。
まとめ – 単なる迷信ではない、歴史が息づく風習
「正月不剃头,剃头死舅舅」――この一見すると不合理な迷信は、実は中国の歴史の中で最も痛ましい記憶の一つと深く結びついていました。それは、異民族支配下で自らの文化と誇りを守ろうとした漢民族の、声なき抵抗の証であり、悲痛な思いが形を変えて現代にまで伝えられた稀有な例と言えるでしょう。
由来を知ることで、私たちは単に奇異な風習としてではなく、その背後にある人々の想いや歴史の重みを感じ取ることができます。そしてそれは、現代社会において伝統文化とどう向き合い、何を次世代に伝えていくべきか、という普遍的な問いをも私たちに投げかけているのかもしれません。