日本と中国の端午の節句の違いと由来:驚きの事実を徹底解説

    1. 中国歴史・民族

    日本では伝統行事として知られている端午の節句は、実は中国から伝わってきた歴史があることをご存知ですか?

    今回は中国由来の端午の節句の歴史や、日本と中国それぞれの特徴や行事の違いについてご紹介します。両国の特徴を知り日中交流を深めましょう。

    日本と中国の端午の節句の違いと由来

    日本の端午の節句の特徴

    こどもの日としての意義

    端午の節句は日本の伝統的な祝日の一つで、主に男の子の成長と健康を祝う日として現代も受け継がれています。この日はこどもの成長や健康祈願として、鯉のぼり(こいのぼり)が描かれた風呂敷や旗が家の庭先に飾られます。

    鯉のぼりを見ると、自然とこどもの日を想起する日本人は非常に多いかと思います。端午の節句で欠かせない特別な飾り物である鯉のぼりは、こどもの成長を祈願する象徴として江戸時代から定着しました。

    端午の節句には、魔除けの効果があるという言い伝えがある菖蒲(しょうぶ)も欠かせません。 菖蒲は、端午の節句の時期に咲く花であり、強い解毒作用があるため厄払いの一環として、古くから大事にされてきました。

    端午の節句では男の子の成長と強さを願って、武士や戦士の鎧の模型や飾り物も玄関先などに飾られます。鎧(よろい)や兜(かぶと)は武士にとって身を守る大切な道具でした。その役割にちなんで、子どもの日には無病息災と健康への願いを込めて飾られる、長く続く日本の伝統行事です。

    こいのぼりや武者兜の背景

    こいのぼり

    端午の節句にこいのぼりが飾られるようになったのは、江戸時代が始まりといわれています。当時は幟(のぼり)と吹貫(ふきぬき)がメインで庭先に飾られており、お供え飾りとして鯉が使われていました。

    鯉が端午の節句に欠かせない存在になった背景には、中国の歴史書「後漢書」の一説が関係しています。「鯉が険しい滝を登り、竜になった」という故事があり、中国の黄河にある「竜門」の急流を登った鯉が竜になるといわれていたそうです。

    この故事はことわざ「登竜門」の元にもなっており、社会的に良い地位につき、世間に有名になるという「立身出世」の象徴として、鯉が伝わるようになりました。勢いよく滝を登る鯉のように、男の子が活発で健やかに育つようにと願いを込めて端午の節句に飾られるようになっています。

    武者兜

    戦国時代から受け継がれている五月人形を飾る風習は、現代においても端午の節句の行事として親しまれていますよね。特に戦国武将にとって自分の身を守る道具であった兜は、命を守るために重要な役割を持っていました。

    戦国時代のような戦がない現代社会では「病気や怪我など命の危険から子供を守ってもらいたい」という想いによる、無病息災を願う意味合いが強くなっています。

    武者兜とこいのぼりは共に、子どもの成長を願う気持ちが込められています。端午の節句が始まった江戸時代とは祝い方も変化した部分がありますが、子どもに対する親の思いはいつの時代も変わらないことが分かる伝統風習と言えるのではないでしょうか。

    食べ物:ちまきと柏餅

    5月5日のこどもの日に、端午の節句としてちまきや柏餅が食べられるようになった背景には、中国の故事が関係しています。

    今から約2300年前の中国に、屈原(くつげん)という名高い詩人がいました。王の側近として高い忠誠心で仕えていた彼は、政治の手腕も発揮していました。多くの市民から支持を得ていた彼ですが、陰謀によって国を追われ、川に身を投じて最後を迎えたといわれています。

    国民たちは、命日の5月5日に屈原の供養のためお供物を川に投じましたが、悪い竜に奪われてしまい屈原のもとには届きませんでした。そこで悪竜が嫌いな「楝樹(れんじゅ)の葉」でもち米を包み、邪気を祓う五色の糸で縛って川へ投げたところ、無事に屈原のもとへ届いたということです。

    この風習は厄除けや身を守る意味合いで日本にも伝わりました。現代はこどもの日である5月5日の端午の節句の食べ物として、私たちの生活に身近な存在となりました。

    実はちまきは関西地方で定着している食べ物で、関東地方ではちまきではなく柏餅のほうが一般的です。

    柏餅は江戸時代に日本で生まれ定着しました。柏の葉の特徴は、新芽が出るまで落葉しないことです。この特徴から新芽を子どもに、古い葉を親に例え、子孫繁栄の象徴とされてきたといわれています。そのため、柏餅は、縁起担ぎのめでたい木の柏の葉で巻いた食べ物として受け継がれてきました。

    ちまきと柏餅はどちらも端午の節句で食べられますが、中国由来と日本古来というルーツに違いがあります。元々中国と縁が深い日本ですが、普段何気なく接している母国の風習の由来を知ってみると、中国交流で話せる内容も深まるはずです。

    中国の節句

    中国の端午の節句の概要

    中国の5大伝統祭日としての位置づけ

    端午の節句にあたる中国の端午节duān wǔ jié)は、中国の伝統的祭日として長く受け継がれている行事の一つです。

    は「はじめ」を意味する漢字であり、十二支を各月にあてはめた時「午の月」は5月にあたります。そのため端午は「5月の初旬」という意味があり、5月が端午の節句の時期として定着しました。

    端午节は中国の重要祭日である、下記の祭日と並ぶ5大祭日として親しまれています。

    • 春节chūn jié
    • 元宵节yuán xiāo jié
    • 清明节qīng míng jié
    • 中秋节zhōng qiū jié

    祭日当日は快乐kuài lè)を祭日名の語尾につけて祝う習慣があります。端午节快乐をつけて祝うイメージを持たれる方もいるかも知れませんが、実はあまり使われません。

    端午节は屈原の供養祭が由来であるため、嬉しさや楽しさのニュアンスが強い快乐は、亡くなった方への供養としてはあまり相応しくないからです。代わりに供養や労る意味合いを含む安康ān kāng)を使って、 端午节安康duān wǔ jié ān kāng)といわれます。

    日本同様に、目上の人への礼儀や相手に対するマナーを重んじる中国ならではの風習や、その由来を知ることで理解を深めて交流に活かしていきましょう。

    旧暦に基づく祝日の日付

    日本ではお正月も太陽暦で祝いますが、中国は旧暦をもとに祭日の日時が決まっています。日本では1月1日がお正月ですが、1月下旬から2月上旬に旧正月がある中国や韓国は旧暦が元になっているからです。

    端午の節句も中国では旧暦で祝うので、日本でゴールデンウィーク期間にあたる5月5日とは毎年ずれます。中国の端午节は祝日扱いとなるため、学校などが休みになるケースが一般的です。

    中国で食べられているちまき

    ちまきは日本同様、端午节の食べ物として親しまれています。中国語では粽子zōng zi)と呼ばれており、日本語の粽(ちまき)と同じ漢字であることが分かります。

    端午节でちまきが食べられている理由については諸説ありますが、日本に伝わった屈原の供養祭が由来とされています。中国では難を避ける厄払いの他、「忠誠心が高い象徴」でもあるため、忠義ある子どもに育ってほしいという願いも込められています。

    広大な中国では各地にいろんな種類のちまきがあります。地域によって主流な中身の具は異なり、同じ地域でも手作りの場合は家庭によって味が異なります。

    味で比較をすると、甘いちまきとしょっぱいちまきに分かれます。主に甘いちまきは北地方で親しまれており、しょっぱいちまきは南地方で広がっているといわれています。普段の食事では北地方がしょっぱい味付けを好む傾向があり、南地方は甘みを好む傾向がありますが、ちまきの場合は逆です。

    北京をはじめとした北の地域では、もち米の中にナツメや小豆を包むのが主流のため、相性の良い甘い味付けが好まれます。食べる時はお砂糖や黒砂糖を追加して食べる人も少なくありません。

    一方で広東省を代表とした南の地域では、もち米の中にしょっぱくした豚バラ肉や味付け卵、またはハムやソーセージを包むのが主流のため、しょっぱい味付けが好まれます。上海出身の中国人は、端午节のちまきはしょっぱい味付けが一般的という認識でした。

    その他、海南島には南国風味のちまき、四川省では辛いちまき、西安ではハチミツをかけて食べる冷たいちまきなど、多種多様の味付けが展開されています。

    節句のドラゴンボート

    中国の端午の節句で行われる意外な行事

    ドラゴンボートレースの起源

    ドラゴンボートレースの起源は中国であり、2000年の時を経て世界に広がっていったといわれています。現在では中国国内はもちろん、世界各地でドラゴンボートレースが開催されており、日本でも協会が設置されるほどの競漕ボートとして広まっています。

    日本に初めて伝えられたのは長崎で、1655年の中国福建省の竜舟文化だったとのこと。長崎に泊まっていた唐の船の乗組員が、出港を待っている間に小舟で競漕しているのを市中の人々が真似たことが始まりだそうです。その後、雨乞いなどの農耕儀礼と合わさり、近郊の農漁村へと広がっていきました。

    ドラゴンボートは国際的な競技として発展した後、1976年に香港で開催された香港国際龍舟祭がさらなる発展のスタートとなりました。

    日本では1988年に大阪で日本国際龍舟選手権大会がスタートし、その後日本各地に広がりました。琵琶湖をはじめ、河口湖や京都の久美浜などで開催され、東京・大阪の吹田市・和歌山等でも大会が開かれています。

    世界規模でスポーツ競技化されたドラゴンボートレースは、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ヨーロッパ・アフリカ等、世界中に広がり、現在では世界統一規格のドラゴンボート競漕として行われるまでになりました。

    屈原との関連性

    中国の端午节で行われる行事には、高名な詩人であった屈原にまつわるものがいくつかあります。その一つがドラゴンボートレースです。別名「竜舟」と呼ばれており、日本でも協会があるほど現代では広く知られている競技の一つでもあります。

    紀元前3世紀古代中国の春秋戦国時代、高名な詩人かつ政治家であった屈原が陰謀によって、国を追放されたことから始まります。

    国の衰退を憂いた屈原は自らの命を絶とうと、川に身を投じてしまいます。これを知った現地の人々が屈原の身を案じ、淵に集まる舟で太鼓を打ち鳴らして探し回りました。淵に潜む竜や魚に屈原が襲われないよう捜索の手を広げても、屈原の遺体を見つけることはできなかったそうです。

    以来、屈原が入水した旧暦5月5日に霊を祭る行事として、その霊を祭る為の小舟レース大会が各地で行われるようになったといいます。そして屈原に思いを寄せる風習が、ドラゴンボートレースとして世界各地に広がりました。

    節句の菖蒲

    日本と中国の端午の節句の違い

    由来と日本独自の発展

    元々、屈原の供養祭として中国で始まった端午の節句は、日本の奈良・平安時代に初めて日本に伝わったとされています。

    当時は古来中国で広がった祭日行事としての意味合いでしたが、次第に日本独特の風習に変化し現代まで受け継がれてきました。稲作を中心とした日本人の生活リズムに合うよう変化を重ね、今では日本の恒例行事として深く根付いています。

    特に端午の節句で欠かせない菖蒲(しょうぶ)は、中国では元々厄払い行事の一環として取り入れられていました。菖蒲という花が持つ強力な解毒作用から、病気や厄災を払う意味合いが強く込められています。

    それがいつしか「しょうぶ」という言葉から「勝負」や「尚武(武を重んじること)」が想起され、男の子の成長を祝う行事として広まっていったといわれています。

    「しょうぶ」という同じ発音に通じることに加え、菖蒲の葉の形が刀に似ていることから、武家社会の中で重要な行事ごとに変化したそうです。

    当時の武家社会では、武芸で名を馳せ、家名を長く受け継いでいくことが重んじられていたため、次第に男の子のお祝い行事として定着していきました。

    菖蒲酒は奈良時代から、菖蒲湯は江戸時代から始まった風習だそうで、日常生活に取り入れやすい方法として、古くから身近だったことが分かります。

    菖蒲に関わる行事は厄払いの一環として日本に伝わった後、様々な変遷を経て子どもの成長や健康、無病息災を願う行事へと移り変わっています。

    まとめ

    今回は日本と中国の端午の節句についてご紹介しました。古来中国から伝わってきた端午の節句にまつわる行事について、日本独自のスタイルに合うように変化を遂げていたことも、新たな発見としてあったのではないでしょうか。

    中国で受け継がれてきた伝統や重んじられている意味と、日本文化が加わって変遷した療法の端午の節句は、どちらも尊重されるべき歴史です。それぞれの良さや文化が浸透した伝統行事として、交流を深めていきましょう。

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