中国の社会

日本留学中の鲁迅と時代の犠牲になった二人の女性

中国文学の著名な作家、鲁迅の作品を通して中国の近代史に触れる方も少なくないですね。

今回は鲁迅が日本に留学していた若い頃、その時代の波に翻弄された、相反する二人の女性の悲劇があったことをご紹介しましょう。

鲁迅

ロシアのスパイとして捕らえられた中国人が日本兵に処刑される様子を、無知な中国人の民衆が興味本位で見物に来ていた。

鲁迅は見せられた日露戦争のニュース映画の内容に余りにも深い衝撃を受けた。医学で人の命は救えても、人の心と思いまでは救えない。

彼は医学の道を捨て、文筆活動によって底辺層の民衆の心を変えていこうと決意した。それは留学二年目、1906年1月の事だった。

西洋文化に触れ、新しい中国を築いていこうと、既に辮髪を落とし、洋服を着るようになっていた鲁迅のもとに、母が病気になったという知らせがその頃毎日のように届いた。

朱安

鲁迅の妻、朱安

急いで帰国するとそれは母親の企みで、かねてより家同士が決めていた、顔も見たことすらない婚約者と結婚させられた。

相手の名は朱安Zhū Ān)。二、三歳年上の妻を娶るのが最良とされていた故郷の伝統に則り、鲁迅25歳、朱安28歳の時の事だった。

朱安についてはこんな評価がされている。

Zhū Ān hé jiù Zhōngguó hěn duō zhōng shàng jiātíng de nǚzi yíyàng,

朱 安 和 旧 中 国 很 多 中 上 家 庭 的 女 子 一 样,

cóng xiǎo bèi jiāo yǎngchéng yī ge qièhé chuántǒng yāoqiù de diǎnxíng:

从 小 被 教 养 成 一 个 切 合 传 统 要 求 的 典 型:

píqi héshùn,huì zuò zhēnxian,shàncháng pēngrèn,bù shí zì,xiǎo jiǎo。

脾 气 和 顺,会 做 针 线,擅 长 烹 饪,不 识 字,小 脚。

(朱安は旧中国の多くの中流から上流階級の女性同様、幼い頃からすべての伝統的要求にかなうよう教え、育てられた典型だった。素直でおとなしく、針仕事ができ、料理に長け、文字が読めず、(纏(てん)足(そく)によって強制的に)足が小さい。

式の三日後、鲁迅は東京に戻った。一人残された朱安は涙した。自分のどこが悪かったのだろう。

実際、彼女に非はなかった。ただ、鲁迅が求める新しい女性ではなかったかもしれない。彼女は夫のいない家で、姑が亡くなるまでの十三年間、ずっとその世話をし続けた。

戸籍上の妻

入籍した日から夫が亡くなる日まで一度も夫婦生活はなかったが、戸籍上は正式な妻だった。祖父が収賄罪で捕縛され、父が病で早世した家の長男として、鲁迅はこの結婚を拒まなかった。

また女性の立場が低く、ひとたび離縁されれば世間から迫害され、容易には生きていけない世間に朱安を独り放り出すことは出来ず、死ぬまでその戸籍上の関係を保ったのだった。

後に鲁迅许广平 Guǎngpíng)と同棲し、実質的夫婦として子まで設けても、彼女は许广平をむしろ“妹”と呼んでその子供と共に厚遇した。

伝統の犠牲になった女性

夫の死後、その遺稿を欲して金銭を提供した相手にはっきりと拒絶の意志を伝え、鲁迅の未亡人だということで援助金を申し出た文芸団体の理事には謝意と婉曲的な断りができる気骨のある女性でもあった。

そして1947年に孤独のうちに亡くなり、夫の墓の横に葬られたいという願い空しく、北京西直门Běijīng Xīzhímén)の近く保福寺(Bǎofúsì)という寺に墓碑もなく葬られた。

拒絶できない伝統と保守的概念の犠牲となった女性だった。

秋瑾

革命家、秋瑾

日本留学中、鲁迅に日本人の親友は出来なかったが、革命の志を持つ多くの中国人留学生と出会う事ができた。

その中の一人が同郷(浙江省绍兴市)の秋瑾Qiū Jǐn)である。

公費で留学した鲁迅とは異なり、既婚者で二人の子供を持つ秋瑾は、夫の反対を押し切り自費で日本に留学していた。後に辛亥革命の三傑の一人に数えられる女性だ。

清王朝転覆の闘い

二人は共に愛国主義と民主主義の思想を推進しようとしていたが、その手段は全く異なっていた。

秋瑾は日本に着くとすぐに、革命家また政治家としての頭角を現し、清王朝転覆の闘いに身を委ねた。更に、儒教思想に基づく男尊女卑を否定し、中国女性解放運動の先駆者ともなった。

帰国後1907年7月に清軍に捕らえられた秋瑾は、その僅か五日後に公開斬首刑という極めて残虐な方法で処刑された。

秋瑾鲁迅の違い

秋瑾より六歳若い鲁迅は、盲目的かつ保守的な封建制度の儀礼や習慣に抵抗する秋瑾の勇気と英雄的行動を大いに賞賛し、尊敬した。

だが、彼は直接的戦闘には加わらなかった。

市井の人々が読める平易な小説の中に、身近な主人公を置き、時代の矛盾と変革の必要を説く。

時間はかかるかもしれないが、文筆活動を通して人々の麻痺した感覚を治療しなければならない。それが彼の戦い方だった。

秋瑾処刑の四年後に辛亥革命が起こり、中国は新しい時代を迎える。

鲁迅の描く秋瑾

1919年5月、鲁迅は《新青年》(xīn qīngnián)と言う雑誌に秋瑾斬首の件をもとに著した《》(Yào)という短編小説を掲載する。

作品中の夏瑜Xià )という名の革命家は暗に秋瑾を指し、彼女への追悼の念と引き続き戦い続けなければならないという意思を表している。

この《》という作品は、北京語学大学出版社の中国語課程の教科書の中にも採用されています。

短編ながらも、その時代の声を聞かせてくれる作品です。

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