寒食節と清明節:中国の伝統祝日の深いつながりと歴史

    1. 中国歴史・民族

    旧暦元旦の「春节」(春節)、同じく旧暦八月十五日の「中秋」(中秋節)、さらには「端午节」(端午の節句)、「清明节」(清明節)と言えば中国四大伝統祝日と称されています。

    そのうちの「清明節」と深い関係にあるのが「寒食節」です。

    寒食節と清明節:中国の伝統祝日の深いつながりと歴史

    寒食节

    寒食节」(Hánshíjié)は、「禁烟节」(jìnyānjié)、「冷节」(lěngjié)、「百五节」(bǎiwǔjié)とも呼ばれます。元旦から数えて百五日目、清明節の一日前か二日前に当たります。

    この日は火を焚いて料理をしてはならず、ただ冷たいものしか食してはならなかったため「寒食节」と呼ばれるようになったのです。

    端午の節句より約350年も早くに始まり、現在まで2600年余の歴史があるといわれています。

    中国の伝統的祭日の中で飲食にまつわる習慣をもとに命名されたのは「寒食节」だけです。その習慣の始まりには大きく二つの理由があります。

    禁火と改火

    当時、毎年春になると空気が大変乾燥するため、熾火が容易に火災を引き起こす上に、春の季節の雷によって山火事などがよく発生していました。

    それで人々は、この季節に盛大な祭りを催し、まず前の年から引き継いで使用していた火種をいったんすべて消しました。これが「禁火」(jìn huǒ)です。

    その後、新年の生活と生産の起点となるように、火打ち石で新しい火を起こし、これを「改火」(gǎi huǒ)と呼びました。

    寒食

    禁火の期間中、人々はあらかじめ十分に火を通した食材を冷たいままで食べることになり、これを「寒食」と呼びました。それが「寒食节」の由来になったとされています。

    寒食節と清明節

    発祥

    Hánshíjié hé Qīngmíngjié yǒu shénme guānxi?

    : 寒 食 节 和 清 明 节 有 什 么 关 系?

    寒食節と清明節にはどんな関係があるのですか?

    Qīngmíngjié zuì zǎo zhǐshì yì zhǒng jiéqi de míngchēng,

    : 清 明 节 最 早 只 是 一 种 节 气 的 名 称,

    qí biànchéng jìniàn zǔxiān de jiérì yǔ Hánshíjié yǒu guān。

    其 变 成 纪 念 祖 先 的 节 日 与 寒 食 节 有 关。

    Chūnqiū Jìn Wéngōng bǎ Hánshíjié de hòu yì tiān dìng wéi Qīngmíngjié,

    春 秋 晋 文 公 把 寒 食 节 的 后 一 天 定 为 清 明 节,

    dào xiànzài,zài Shānxī dàbùfen dìqū shì zài Qīngmíngjié de qián yì tiān

    到 现 在,在 山 西 大 部 分 地 区 是 在 清 明 节 的 前 一 天

    guò Hánshíjié。

    过 寒 食 节。

    最初期の清明節は一種の節季の名称に過ぎませんでした。それが祖先を記念する祝祭日に変化していったのは寒食節に関係があります。春秋時代、晋の国の文公が寒食節の次の日を清明節と定めたのです。現在に至るまで山西省の大部分の地域では清明節の前の日に寒食節を祝います。

    寒食节」の発祥の地は現在の山西省介休市にある「綿山」(Miánshān)です。

    歴史

    介子推(Jiè Zǐtuī)の物語、割股奉君(gē gǔ fèng jūn)

    春秋時代、晋の国で跡目争いゆえに暗殺の危険に直面していた「文公」(Wéngōng)は、逃亡して流浪の身になっていました。その文公に19年にもわたり追随したのが忠臣の「介子推」です。

    物資を奪われ、飢えて死にそうになった文公のために、自らの太ももの肉を切り取り、周囲で摘んで来た野菜と共に煮て食べさせたというのが「割股奉君」として伝わる美談です。

    やがて、国に戻り王位に就いた文公は、しばらく彼の事を忘れてしまっていました。

    後に、以前の恩に報いたいと思った時には、介子推は老いた母を連れて綿山に隠居してしまっており、幾度使者を送っても山から出て来ようとしません。

    そこで、臣下のあさはかな進言を聞き入れた文公は命を下し、綿山に三方から火を付け、介子推を強いて出てこさせようとします。

    予想外にも火は瞬く間に広がり、なんと三日間も山を焼き続けますが、それでも介子推は出てきません。

    鎮火後、調べたところ、燃えた柳の木の下に介子推とその母の死体が残っていました。

    文公は大いに悔み、哀しみ、介子推を記念して、彼を焼死させてしまったその日に人々が火を使うことを禁じ、火を用いない「寒食」のみを食するよう命令を出したのでした。

    現在の錦山

    道教思想の先駆者の一人でもあった介子推がここに葬られたことから、「綿山」は「介山」(jièshān)とも呼ばれ、道教の聖地となりました。早くも前漢の書物の中で介子推は道教の聖人とみなされています。

    1995年から大規模な改修をを施した「綿山」は、現在、一大観光スポットとなっています。また亡くなった祖先を祭る寒食节の習慣は時代と共に清明节に吸収されていき、徐々に人々から忘れられて行きました。

    今では山西省や山東省のごく一部の地域を除いて、清明节は知っていても寒食节は知らないという人がほとんどになってしまったのです。

    中国料理からインスピレーションを得た、スライスした肉と野菜のトレイ。

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